がんばってます

ながむ

「ながむ」という言葉が古語にはありますね。もちろんあたりを見遣るということではなくて、これは学研からの引用ですが「(物思いにふけりながら)ぼんやりと見やる。(ぼんやりと)物思いに沈む。」という意味でです。これと比較して、「黄昏る」という言葉がありますね。これは「ながむ」と同じような感覚で使われますけれど、本来は「日が暮れて薄暗くなる。」 「盛りを過ぎて衰える。」(小学館)という意味ですよね。物思いの原因をその行為に落とし込んでいるのはなんとも日本語らしいというか、不思議で面白いですね。「君の名は。」でも云われていましたけど、「誰そ彼」から来ている言葉ですから、どちらも視覚的認知が入った言葉ではあるのですよね。(見ている行為と、見た先の景色で違ってはいるのですけど)「見る」という行為の哀愁は何故なのでしょう。私は行き過ぎた考えをしてしまいがちなので、人間というものは触れられずにいれば淋しくて死んでしまう、というようなことまで考えてしまいます。『源氏物語』に怨霊として知られる六条御息所がいますけど(実はそのように云われるような恐ろしい人ではないということを熱弁したいのですが、それはまた別の記事で)、その御息所の源氏との逢瀬の場面にはいつも帰る源氏を見つめる姿が描かれています。見つめるということは、日本文化における最上級のもののあはれなのかもしれない。五感の中で、触覚だけはあまりその感覚を失うことがありませんよね。(ありますけど、かなり少ないですよね)失った時は、死んだか、もうそれが無いか。触れられないということは究極の生からの乖離のように思います。触れるということは生きるということで、相手と自分の一体化、信頼、思考の疎通、つまりは他者性の消去なのかも知れないですね。考えていることが分からないという対人においての最大の不安を消す至上の手段、、淋しいから生きているのかも、まぁこれはもう考えないでおきましょう。「これから季節が冬になってしまったら誰が温めてくれるんだよ」などと歌っていたら、冬になってしまいました。人肌恋しいと云われる時季になりましたので、このような記事を読んだことも、無駄にはならないと信じて