がんばってます

思春期

思春期特有の、みたいな文言はよく云われることだが、最近はそんなことないんじゃないかって思うようになってきた。それは確かに思春期から生まれる感情とか言動なのだろうけれど、大人になれば抜けるってことは一概にしてないように感じている。その例として男の子はずっと高校生とかもよく云われる。"少年"ジャンプを愛読している大人は多い。よく考えたら一冊を買うのは安くても、週刊を買い続けるのって割と経済力が必要だ。しかし少年漫画を大人が読むことは、ただ好みの問題ではなくてカルチャー化しているところもあるのではないかと思っている、少し穿ち過ぎた見方かもしれないが。大人が少年誌を読む、というのは子供の気分を忘れていないという遊び心の表出になるし、普通大人になったら読まないだろう、という常識的なものに対する一種の逆張りみたいなところもある。午後の紅茶を午前に飲むとかの使い古されたボケみたいに逆張りというのは使いやすくて、ちょっとしたユーモアもあるのに他者や常識に反することができるから好まれがちだ。いつまでも子供でいたいという気分、逆張りに表されるような一種の厨二病性、大人になりきれない幼稚性は簡単に脱することのできるものでは無いし、それは遊びでもあるのだと思う。楽しくてしていることだ。しかしこんなことを言ってはいるが、ただ単純に面白いということは本当に大きいのではある。中学生の頃に買った漫画を大人になってから読み返してまたハマることは何らおかしいことではない、というか自分もそんなことばかりだ。このような複雑化が大人の主体であって、「思春期特有の」を捨てることが大人ではないと思う。

でも、それを擁護したくてこの文章を書いているのでは無い。大人になっても抜けない、そのような自意識との闘いであるところの思春期は、コミュニティに求められる大人とはかけ離れているのだ。「コミュ障」という言葉を聞いた時に、コミュ障で何が悪い、と思ったのであれば、それは「思春期特有の」を捨てられていない証左だ。なぜ消えないはずのそれが、「特有」と云われるのか。それは簡単で、これを抑えなければならないことを他者との関わりの中で知るからだ。その意味で少年誌を読むことはコミュニティ形成においてなんら問題を生じない。むしろ有効なものであるともいえる。だからそれに類する行為は大人になってもへ消えないのだ。そのようなところを無視して、一意に「子供心を忘れない」などとこの思春期にいつ迄も浸っているようでは、本当にいけない。コミュ障で何が悪い、それはそれで結構である。しかし大人なら、他者と喋らなければならないこともあると知っているだろう。勿論だが、精神的な問題を抱えている人に向けているのではない。自意識に苛まれた、友達がいない、陽キャになれない、恋人が出来ない、とのたまうその人に向けているのだ。他人の心はわからない、しかしだからこそ解ろうと努力するのが筋ではないか。誰よりも自分が他者と関わろうとしているのに、なぜその自分がその態度なのか。誰も嫌ってはいないのに、このことは表裏一体で、誰も簡単に特別興味を持ってはくれないのに、だから人はそのために努力したり優しさをもって接するのに、なぜ。相手を観察し、何を自分に求めているのか考える。そうしすぎも良く無いが、その塩梅は自分で見極めるしかない。コミュニケートは難しいのだ。だから経験を積むしかない。他人を嫌う前に自分の行動を顧みるべきではないか。