がんばってます

永遠

永遠の愛、不変の愛という言葉をよく聞く。それはキリスト教的価値観というのは本当にそう。教会で、「病めるときも、健やかなるときも、ーー」という感じで。

日本の情愛は個人的に平安文学に最も表れていると思う。そういうところで云うと『源氏物語』はそういうもの(キリスト教的愛)とは真反対のところにある。いわゆる「もののあはれ」ということで。『枕草子』は笑うような場面が多いけれど、それは藤原北家の内部争いによる痛みや悲痛の陰惨さに裏打ちされたもので、キリスト教のような強者の幸せを体現したものではない。ここで突然「強者の幸せ」と言ってしまったけれど、それでもこのような愛への観念は強者にしか許されていないとしか思えない。半世紀以上を共にする人を、自分にも相手にも何があっても愛し続けるということを信じること。他人がわたしのそばに居てくれるということは自分の中ではもう都市伝説みたいになっている。他者が私を愛せないということは強烈に信じている。私という存在をもって、人にどうしても愛されない者はいるのだと生まれて二十数年で理解したところがある。

それでも最近永遠の愛というものを少し分かった気がする。永遠というものは未来においては存在が不定でも、過去の事実は変わらないという点でそれをなし得る。そうではあるけれど、過去に対しても教科書に載るような歴史的事実にすら立場によって見解が違うということが往々にしてある、ということを考えれば、過去が永遠になるとも言えない。しかしそのある事実を二人だけで、同じ価値観で、同じ熱量で思えたら、それは永遠なのではないかと思う。そういう意味で、私が自殺した時、友人席から棺桶を見つめて泣いて欲しい人がいる。これが永遠の愛だということに、今の所はしておく。(本当は普通に愛されてずっと誰かと一緒にいたかった)