がんばってます

壬申自己

昔、4年前くらいまでは、いや去年までか。

それまでは、人身事故に人に迷惑をかけずに死ねという言葉をかける人達に物凄い憤りを感じていた。

鬱、苦しみ、それも絶対にひとりでは抜け出せない、死が最も救済になる場所には誰も来ない。

実際に来ないのではない。しかし、簡単には誰にも救えない。むしろこちらを嫌うことは普通のことだ。

天井を見ることしかできない。死にたいと何度も思う。その内に負だけの、それもそれがどんどん増幅するグルグルな思考に耐えきれなくなって叫びながら発狂する。自傷行為をする。手を噛む、腕を切る、縄を首にかけてみる。死ねない。

そういう所にいると、横断歩道、踏切、階段、高層階からの窓、包丁、カッター、風邪薬、全てが死ぬための場所や道具に見える。

そういう気持が分かる。

怖い気持を超えるのは物凄いハードルだ。

生存本能は人間が持つ極度にある。だからどんなに自分を傷付けられていても最後は死ぬのが恐ろしくなる。

それを乗り越えた先は、「やっと楽になれる。」それだけだ。

誰かがかけてくれる死なないで、の先に死にたいしかないことの絶望。それよりかは遥かに幸せなことだ。

しかし、これは殆どの場合本人にとってのみが感じることのできる感情だ。

もし、生きてたら幸せなことがあったかもしれないのに。

こんな言葉は腐った言葉だ。

でも、そうかもしれない。

 

人身事故で今電車が停まっている。

22:50分から動いていない。

帰りはいつになるんだろう。

疲れたな。

いつ家に着けるんだろう。

今さっき、そう思った。

苦しみを思うことよりも先に、そう思った。

労働が人の感覚を麻痺させる。疲れさせて。

あ、皆、疲れていたのか。

そう分かった。

いや、疲れてなんかいないのかもしれない。

ただ人の気持が分からないだけなのかもしれない。

でもどこかで疲れているんだと思う。

休んでも取れない疲れを抱えている。

それが死へ向かうのか明日を生きるためなのか、その違いだけで人はこんなに気持が変わる。

 

私は、今どちらの気持も分かった。

死にたいと思っていた時、生きさせようとしてくる人間を心から憎んでいた。

能天気なお前らには一生分からない気持を抱えていると思って。

当時は本当に未来の光など無くて、自分で自分の首を絞めていることにも無自覚で、いや寧ろそっちの方が救いに見えていた。

辛い気持を分かっている人といると自分の事までも分かっていてくれてるようで嬉しかった。

でも沼の中で友達が出来ただけで、誰もお互いを救えない。

なんだか人間は、救われることが無痛だと思っているところがある。

神様みたいな人が苦しみを除いてくれて、楽しい世界に連れてってくれるという信仰がある。

実際は、現実は、そんな事はない。

死にたいと思う自分を否定できなければ、自分を殺さなければ、救われる事はない。

自分を殺す事は辛い事だ。

元々そんな気持なんか微塵も湧かなくて、あっけらかんと生きていける人もいるし、なんとか抜け出した人もいる。

そんな人達は、やはり、生きる方へ行くための自殺を勧めるしかないのだ。

そうだし、自分の事を大切にしていて、人身事故で故人の気持なんか全く思わない。

 

何が正解かは、分からないし、正解なんかないけど、自分の中でどちらの気持も分かっただけで何かこうしようというのはまだ定まっていない。

苦しい。