がんばってます

楽しさ・嬉しさ

「嬉しい」

或る程度規範があり(プレゼントにはこれが良い、デートにはここが良いなど)、与えられるものである。つまり与える側と与えられた側が存在し、主に与えられた側がこれを感じる(言われて嬉しかった言葉などは心に残りやすい)。このことは、与える側に打算を生み得る。この打算は快楽である。それでいて、「嬉しい」も、これは快楽である。

 

「楽しい」

「嬉しい」が主体と客体に分かれたのに対して、「楽しい」は自己や二人ないし多数の他者のなかに唯存在するものである。「楽しい」という感情には打算が生まれにくい。それはある主体が客体を見下ろす隙が無いからだ。お互いの歩み寄りによってこの感情は増幅され、それは立場を無くし、対等にする。つまり、誰かを楽しませるだけ楽しませて、自分は楽しまない、ということはあまり存在し難い、ということである。それが存在するとすれば、それは「楽しませた(相手を嬉しくさせた)」であり、「楽しませた」と「楽しい」の間には大きな乖離がある。「楽しい」は幸福である。

 

人を思っても報われない時間には嬉しいことが多い。

会ってくれて嬉しい、笑ってくれて嬉しい、褒めてくれて嬉しい。

幸せな時間には楽しいことが多い。

楽しいことは、どこまでもしょうもなくあることができる。

今日、ラーメンを食べに行ったら、テスト期間の女子高生が、ラーメンに髪の毛が入ってしまったと友達らと爆笑していた。

側から見ていた私には、その可笑みが共有されることは無かった。しかしその女子高生の間では、とても、とても楽しい時間であっただろう。

「楽しさ」の小ささ、素朴さは、チョコをくれて嬉しいだとか、そういうものではないのだ。

矮小なその中にその者たちだけが存在できる小宇宙的広がりを有しているのである。

しかしだ。そうは言っても、嬉しかった思い出というものは、どうも忘れられないのだ。それは条件が完璧ならば、パチンコのような、射倖心とは違うが、何か実体の無いものでもそれはもう途轍も無い、強烈な、心臓が跳ぶような衝撃がある。その主従関係に、沈み切って前後不覚になってもう何も見えなくても良いと本気で思えたりする。

今まで、「楽しい」も「嬉しい」も、そう簡単に得られない感情であるから、この違いに気付けなかった。「喜怒哀楽」の喜と楽って、何が違うの、とか話したことがある。しかし、こう考えて見ると、本当に違う感情であるのだ。

世の中にはギャンブルを職業にしている人がいることを考えれば、「嬉しい」を集める為に他者に必死に縋るのも良い人生かもしれない。

だが、どうも私はギャンブルの真髄というものにハマり切れない所があり、自分とその人だけの、他の誰かに全く解らない言語や雰囲気を、時には持っていたいという方が、今の私の願いである。

つまり、楽しいことを沢山したいのだ。