がんばってます

脅迫

僕は、中学、高校時代本当に、本当に陰惨な生活をしていた。毎日鬱屈に首を絞められるようにして朝目覚めて、昼は猿のような気持ち悪い笑顔でおべっかをして、そうして夕方帰ってくると、この世の悲しみとか孤独とか不幸が全部僕の頭や肩や、腕や足に絡みついてくるような、神が僕に罰を与えるために悪魔にしがみつかせているような、そんな最悪の身体・気分にへたり込んでいた。このように僕はおべっかを毎日なんとか成功させて、友達やコミュニティを維持し生活を持ち堪えていたが、見た目はそのコンテクストを失えばまさに異常であった。栄養失調やその暮らしで弱った胃腸のせいで口の端がいつも切れて赤く血が滲んでいて、唇も乾燥していつも切れていた上に貧血で真っ白だった。手足も酷く痩せていて顔色もいつも土色であった。そうでありながら、体質が浮腫みやすいものであったから、顔は厭に丸く、猫背もそれに拍車をかけていた。腕は傷が見てられないものであったし、見られたくもなかったから包帯をしていた。自転車で転んだと言って疑う者はいなかった。

何故そんな陰鬱な暮らしに至ったのか。それは、生活には教養なんか必要ないからだ。教養が無いことの一番の不幸、それは共感能の質の圧倒的な低さだ。教養が無ければ想像など出来ないのだ。だから、この世が善と悪で出来ていると心から信じ込むことができるし、自分では何も判断しなくても考えなくても良い。この世は常に誰かに利己的な期待をして、自分は悪くないと思い込める者から勝っていくゲームをしているのかもしれない、とすら当時は思った。この話をそいつらにしてもどうせ、何かよく分からない事を言っている、と僕の話は宙を浮いて何もないところへぷかぷかと行ってしまう。そんな奴らが、自分を守るためだけに共感とやらを行い、自らをHSPと名乗り、自分は生き辛いとのたまう。だから、自分は常に、教養のない誰かの期待に応えたり、馬鹿なフリをして、それに耐えていたり、無かったことになるようにしていた。そんなの、無理があるのに、そうしていないとより他者も自分も醜く感じるからそうしていた。

私は期待に応えるのが本当に辛い。私をコンテンツ化して娯楽として消費しようとしている、それが本当に辛い。本当の自分など、この世に無いことは分かっている。自己というのは変容のなかで曖昧にあるものだ。しかし、「つまらない人間が僕をつまらないと思い、落胆し、時に悲しんだりする事に耐えられず、期待に応えている」、これが自分だと思うことはあまりにも認めたく無い事実だ。こんなこと、したくない。

私は何故大学時代(一年生、四年生)楽しかったか。それは、私を誰もコンテンツ化しなかったからだ。娯楽や道具として私を消費しようとはしないでいてくれた(ただ大学時代にいた少数の距離を置いた人達は、そのようなきらいがあった)。人間的な弱さや、生き抜くための術に対して目を向けてくれ、優しくしてくれたり認めてくれた。自分を高めて他者をただただ受け入れる、ということだけを皆していた。

私はかなり人間嫌いであるし、自分のこともそんなに好きで無いから、他者に心酔するということを本当に特別に思っており、一度その人を好きになれば、宗教的に、崇めるように好きになってしまう。大学時代はそんな人ばかりだった。

破滅的な生活の先、それをあなたと見たとき、あなたは最初になんと言うのだろう。