がんばってます

甘味

この、目の前にあるマンゴープリン。このマンゴープリンこそが私を慰めてくれている。無抵抗に甘さを脳に感じさせてくれている。優しさってこういうことだとつくづく思った。「してあげる」という言葉を使うことに対して、このマンゴープリンにはその発想すら無いだろう。私はこのプリンに私をみた。私は、今までずっと、私が出来ることを頑張ってして、何をされても許してきた。しかし全部それらは無意味だった。無意味なことに気付いたのは本当に最近のことである。この無意味というのは打算的に、メリットデメリットを考えて優しくしていたから、ということではない。考えたくもなかったけれど、文字通り「無」であったと気付いたということだ。風がそよぐように、窓から陽が照るように、そこにはあるが、何も残らない。以前は私もこのマンゴープリンのような優しさをもって人と接していた。ただただ甘く、いつ食べられるかなんて分からない、飽きられればいつでも廃られるような、それでもただただ無抵抗で、。でもそれで良いと思っていた。それで向こうが幸せならと、、しかし誰も幸せにはならなかった。結果として生んだのは、他者の精神をつけ上がらせ、助けるとか、心配するとかの発想を奪って、何もかも駄目にするだけだった。義理人情とかそのようなものはこの世には無い。受けた「恩」は、それを返さなければならない義務感、「ナメられていない」ことが前提でマトモに返されるものであって、立場が下層にあっては貰えるものは「アダ」のみであるし、何より恐ろしいのは上の立場(と思い込んでいる)の方は、それに全く気付かないということだ。むしろダメなヤツに教えてやらなきゃ、なんて考えている。人を動かすのは常に利己的な精神だ。結局自分が一番可愛い、ということ、本能的に刻まれたマウント行為の残酷さ、それらはこの「甘味」によって目を背けたくなる程克明に見せつけられた。これはなにも自己愛(利己主義、頼るなどの行為における他者の不利益をある程度無視すること)を否定している訳ではない。ドラマや映画で語られる情愛というのはあくまで現実世界の模倣(特にヒューマンドラマや恋愛に関して)であって、どこまでいってもフィクションであるということを言いたいのだ。つまり、あんなのは神話とか、お伽話くらいあり得ない話であって通常の世の中において利己主義というものの存在は莫大なものであるということだ。しかしそれらを過剰に摂取している私たちはそんなものがあるかのように錯覚しているように思う。それが故に心の底から好き、愛してる、といいながら、それを自己欺瞞なんて発想もなく自分が体現出来ていると信じ込み、実際は出来ていないために恩をアダで返し続けるなんていう吐き気がするような認知と現実との乖離が起きることが世の中にはしばしばある。これらはあまりにも、あまりにも悲しい事実だ。でも、そうではあるけれど、その自己欺瞞によって最近よく云われるようになった「自己肯定感」が満たされていると私は思っているから、もしこの予想が当たっているのならそれでいいと思う。それ以外だったら、、いや、考えないようにしよう。

 

それはそうとマンゴープリンがおいしい。食べ続ければ糖尿病になるだけの優しさも、偶になら特別の幸せをくれるということもある。太宰の「桜桃」を読まなければ。