がんばってます

(駄文)手紙とLINE等をはじめとするネット上の会話について

 手紙とLINE(オンラインでの文章会話の代表としてLINEを用いる)は何が違うだろうか。(ここでLINEを用いたのは、主にその会話の相手が顔見知りの気の合う人であることが多いからである。全く知らぬ人との会話はここでは除く。)

 このことを考えるきっかけとなったのは平成十二年発行の『群像』第五号に載っていた、村上龍田口ランディ(敬称略)の対談記事である。そこで田口ランディが、ネットでのコミュニケーションはコミュニケーションではない、と言っていたのである。勿論広義でのコミュニケーションを指すのではない。理解し合ったり、何か共通したものを持つ、共有する、という意味でのそれである。このようなことを求めている人はインターネットに沢山いる。SNS(特にLINEのオープンチャット、Twitter)や5ch等を覗けば、一目瞭然であろう。ただ、それはインターネットには無いというのだ。村上龍はこれに対して、コミュニケーションの効率性がインターネットにあるという点で、これはお互いに理解し合うとか、理解していない部分を補うとかというには全く向いていない、と述べた。これを裏付けるものとして、自身もファンが作ったネットの掲示板に書き込んだことがあるそうだ。しかし三ヶ月程でグシャグシャになったと、。それと、メールは別れ話に向いていないという話もしていた。涙とか、かみそりを手首に当てるとか、そういうリアクションが必要だと言っていた。手紙も同様に身振り手振りなど出来ない。しかし、手紙はLINEとは違う。私は文通はコミュニケーションだと思う。では何が違うのだろう。

 まず、対談でも述べられていた「効率性」について。LINEはこのことがかなり優れている。すぐに送信出来て、その通知がリアルタイムで相手に届き、返事もしようと思えばその場で即座に送ることが可能だ。アプリを開き、相手を選び、思いついた文章、あるいはもっと効率良くするならスタンプを送れば良い。この点、手紙は真逆の存在であろう。便箋を買い、内容を考え、その内容も、時候の挨拶や、相手や自分の暮らしなどを思い浮かべながらで、、それでやっと書けたと思えば、住所を調べて切手を貼って、一日以上をかけてやっと相手に届く。いつ届いたのか、いつ読んだのかは、知る由も無い。返事が来るかさえも、。だから相手を思い浮かべる時間はこちらの方が圧倒的に多いであろう。季節や面白い文章を書くということに思いを巡らせて、文字を一つずつ書いていく。何と非効率であろうか。しかし、そこに趣、可笑味がある、しみじみと感情が動かされる要因がそこには確かに存在する。

 次に「筆者」について。LINEで文章の書き手を知れるのは、画面にそう書いてあるから、という一点のみである。親しい間柄であれば、この文面は誰々っぽいとかを感じられるのだろうが、それはあくまで推量に止まって、本人に確認する他は本当の所は分かり得ない。手紙は自分のこと、自分とその相手とのこと、その相手のことを話すものだ。内面の吐露であったり、相手と自分だけが知ることもそれには内包するだろう。LINEでもこれは出来るのだが、例えばツムツムのハートのおねだりだとか、YouTubeの動画のリンクを送るだけだとか、そのようなことは出来ない。手紙には毎度毎度そのような二人だけの空間が出来る。その意味で、より本人性は強まる。しかしこれより確実なのが、筆跡である。古典でも「て」と呼ばれて、これを重要視した。かの『枕草子』でも、「うらやましげなるもの」で「てよく書き」が挙げられている。現代でも筆跡鑑定があるし、その書きぶりは本人の独自性を強固に持ったものである。確かに美しく書くには一つのゴールというか手本が存在するにはする。小学校の書道とかは特に同じものを目指させるきらいがある。しかし、全て同じであっただろうか。ひとつひとつが個性のある別のものであった筈だ。このような点で分かりきったことではあるが、筆跡は個人性を大きく持つ。さらに筆跡には性格が出る。丁寧にトメハネをつけているから几帳面そう、行間のあまり意識していない勢いのある文字であるから大雑把っぽい、柔和な性格であるのかな?、勤勉な人なのだろうか、とあれこれ考えることが出来る。これらの点で手紙にはやはり「その人」ということを強く意識させるものが多分に含まれる。LINEではゴシック体のみだ。しかし文体という意味では、LINEの方が勝っているかもしれない。ある意味、礼儀も規範もない世界であるから、変な語尾とか、絵文字とかを自由に使うことが出来る。その人との間だけの砕けた言い方とかを作ったことがある人は多いのではないだろうか。しかしそれは近年薄まってきているのでは無いかと思っている。ネット社会の発達はJK語、おじさん構文など、ある特定の喋り方をすることで任意のコミュニティに帰属するという傾向を強めている。(「おじさん」自体にその意図は無いのだろうが、「おじさん」と関わる相手がそれをお茶けて使うということに対して)最近のYouTuberの喋り方はその点で浸透するようにキャッチーになってきているし、それによってそのコミュニティ内で一層統一化が図られている。でもそれは手紙の敬語縛りよりかは、自由であろう。しかし、それを考えても手紙の「筆者」と文面との同一性には勝てぬだろう。

 ここまで「効率性」と「思考」、「視覚」について述べてきたが、最後に細かな点について述べていく。LINEのスタンプは、結局決まったものから自分に合った最適なものを選んでいるだけで、それ自体が本当ではないという問題がある。一緒に同じものを使えば一体感とか共感を感じるのだろうが、非常にシステマティックな感情や意図からであったとしても(義理であったり、社交辞令など)、それを成し得ることが出来てしまう。それと手紙では紙の材質や匂いなどを工夫することで、視覚以外の触覚や嗅覚を刺激することが可能である。どこで聞いたか忘れたが、匂いは記憶とかなり結びつく性質があるらしい。

 他にもあるかもしれないが、今回はここで終わりとすることにする。理解し合ったり、何か共通したものを持つ、共有する、という意味でのコミュニケーションを取るには、LINEでは前述した点においてやはり無機的で、それは成せないのかもしれない。手紙は、実際のコミュニケーションとは方策が大きく異なっているものの、行き過ぎではあるかもしれないが文学とコミュニケーションの間として、自己と他者を繋ぐコミュニケートを完成させている。

 平安期の和歌、近世の艶書、というように読者を意識した文字を用いた創作行為は日本に伝統的に存在した。しかし現代日本ではそのような機会は確実に減ってしまった。このような「書き手」としての創造性を、手紙を書くという行為は今一度呼び起こしてくれるのではないだろうか。

 是非LINEばかりでなく、たまには手紙を書いてみては如何でしょうか。

 

(余談)だからその点では、Twitterを誰向けに書いているのだとか、独り言とか、承認欲求とか云われるが、それでいいのだ。コミュニケーションは出来ないのだから、自己満足で良い。