がんばってます

LUMIXの動画見ました

https://youtu.be/pvjvj6VR4EU(たかのの動画)

https://lumix-base.jpn.panasonic.com/student-ambassador-program/#LUMIXのサイト)

 

 この動画では、「りんご」が登場する。これはただのりんごではない。私たちが身体を用いて当たり前にするような生活を、代わって行ってくれる「りんご」なのだ。その力は、カーテンを開けてくれたり、エアコンをつけてくれたりと様々である。ただ、ここで動画を見ているとこの「りんご」が主人公の生活に恒常的に根ざしている訳ではないことがわかる。この点に注目しながら、「りんご」とは何か、主人公の「生活」とは何かを考察していく。

 まずはじめに「りんご」の力に注目すると、完全に生活を便利にしたり、主人公をコントロールするわけではなく、外的圧力により主人公の行動を変えていることに気付く。はじめに主人公が目を覚ますシーンがあるが、このシーンにおいてりんごは通常の人間生活における目覚まし時計のように描写される。そしてりんごを齧るとカーテンが自然と開き、主人公は起床する。りんごを齧ると目を覚ます、すなわち自身の内面に作用して行動の起点とさせるのではなく、陽の光を浴びて目を覚まさせるという外的圧力による行動の変化であることがわかる。これはエアコンが自然につくシーンも同様である。また、洗面台の前で身支度をするシーンがある。このシーンでは前後で「りんご」を齧っているものの、主人公が着る服装自体は自らで悩み選んでいる。ここでも内面の意思決定には「りんご」は干渉していない。(これは少し本筋から離れるが、もしかすると主人公が「りんご」の能力を得たのは、赤色の持つ潜在的エネルギーへの信仰心にも似た強烈な羨望から、主人公が望んで手に入れたものであるのかもしれない。)このように「りんご」は、精神ではなく肉体を外からの刺激によって動かせていることがわかる。

 次に、コーヒーを淹れるシーンをみてみる。りんごとコーヒーという組み合わせは世間一般にいわれるような、和菓子に緑茶とか、ショートケーキに紅茶とかそのような組み合わせに挙げられるようなものではない。むしろ、かなり味覚的に合わない組み合わせに思える。ここからも「りんご」が機能的に存在しており、嗜好物としてあるのではないということがみえる。そしてコーヒーを飲むシーンになるのだが、ここでは主人公が出かけるまでのシーンの間で唯一「りんご」が画面に映らないのである。「りんご」はこれまで、社会生活を遂行するために必要な行動に対して作用してきた。例えば、りんごを齧ることで行った起床や化粧は、社会に要求される「あるべき姿」を保つために必要な行動である。そして世間に承認されるために取るそのような行為は、コミュニティの中でその効果を発揮する。それに対して「コーヒー」という存在は、この点で「りんご」と対極にある。自宅、かつ一人きりという、社会や他者とは切り離されたところで為される休息の上にこの「コーヒー」は存在している。これまでに「りんご」が前述したような、社会生活を生きる主人公を機械的に存在する「りんご」を通してみせてきたことを考えると、ここでの「コーヒー」は主人公の人生の中の「余白」としてあるのであり、もっと根源的な、精神の深いところを慰める存在なのかもしれない。肉体に作用する、機能的にある「りんご」、心に作用する、嗜好品としての「コーヒー」、どちらが良いということではなく、どちらも必要で、大切なものと思う。だが、自分の生活に必要な行動を「りんご」に頼る主人公にとって便利ということを超えたところに位置付けられる「コーヒー」のようなものを、自分の生活にも取り入れたいものである。

 最後に、携帯電話で友人と話すシーンでこの動画は終わる。今までずっとそばにあり続けた「りんご」が携帯電話に変わるのだ。真の社会に出るときには「りんご」はもう力を発揮しない。「りんご」は主人公の内面世界にすら干渉できないのであるから、社会という他者(ここでいう友人)の視線にまでは当然作用できないのであろう。携帯電話と「りんご」といえば、当然Appleスマートフォンを連想する。現代社会においては、もはや生活必需品ともいえる。最近では電化製品をつけてくれたり、健康を管理してくれたりとスマホでなんでもできるらしい。これは動画内での「りんご」と同じではないか。しかし、スマートフォンとは決定的に違う部分がある。それは、「赤色」という点だ。スマホを赤色に塗装すれば良いとかそのようなことではない。生命の赤でなければならない。無機物ではない赤こそ主人公の求める根源的なエネルギーなのではないか。生活の便利さを支えるということと同時に、「赤」の生命的欲求が「世界を少し変える」能力になっているのである。それは生の根源であって、無機物のスマートフォンには成し得ないものだ。Appleの生みの親であるスティーブ・ジョブズは自分の子供にiPadを触らせなかったという話があるが、「りんご」であったら進んで与えていただろう。「りんご」をさまざまな観点から象徴的に描き出したこの映像作品は、とても素晴らしいものと思うし、このようなものを生み出すことのできる友達がそばにいることを誇りに感じます。

あゆぴ