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文学作品の理解(真面目)

まず前提として考えなければならないこととして、作品世界が必ずしも現実のミメーシス、つまり実社会の生活や価値観、あらゆる定理を模倣したものではない、ということが挙げられる。そして、それはかなり重要な点である。なぜなら、小説という文字媒体によって創造される芸術と、人間の知覚や意識をそこに投影することとの間には決定的な隔りが存在するからである。この限界をみることが出来るのが日本の純文学、その中でも特に私小説である。そのようないわば日本の自然主義は、他の文学を自分やその登場人物を良く見せようという偽りを含んでいると批判し、田山花袋の『蒲団』にみえるような、作者の抱える世間には隠しておくべき不純な心や、自身の思考心理をそのまま暴露すること、いわば自己のありのままをミメーシスすることを試みた。しかしここには、本当に自己を文字として模倣することが出来るのか、という問題点が存在する。模倣をするということは、私小説で言えば主人公(小説上で筆者が模倣された人物)と筆者(主人公の模倣の対象となる人物)は限りなく一致しなければならないはずである。私小説はこれを可能であるとしている訳だが、人が持つ思考の流動性や、言葉の持つ虚言性、演技性は、この私小説という形態を全く否定する物であり、これは誰しもが好みや感情が変化する以上、人間であるならば必ず持たざるを得ない性質である。つまり作者がその時点で持っていた思考、思想、感情は忘れるべくしてあるもので、また変化するものでもある為、作者がどのように書いた後に述べようともそこに信頼性は存在し得ないのだ。人の意思が介入する以上、内面世界の模倣をすることで絶対的に一つの真実(主人公)を一意に決めることは不可能であると言っていいだろう。このことを踏まえて改めて「作者の意図を理解する」ということを考えると、作家論的な人格や内面を理解するという見方ではなく、読者論的な作家が読者に対してどう作品世界を受け入れさせているかということに焦点をおくべきではないか。その意味で作者の存在は消失し、読者が作品を読み、作者ではなく読者がその行為によって世界を創造すること、またその可否が、文学作品を理解するということに繋がるはずである。すなわち「文学作品を理解することは、作者の意図を知ることによって可能になる」という命題において、「作者の意図」はその作品を作った時点での作者の意図や思想ではなく、その作品がもたらす読者の作品世界の構築のプロセスのことであり、「文学作品を理解する」ことは、作者の「言いなり」になることではない。

推理小説の結末に部分に重要な事実誤認があったとして文学賞を逃す、という事象について

このことを議論する上で、このことがSF小説ではなく、推理小説だったこと、小説という文字世界であることを考えなければならない。まずSF小説ではなく、推理小説だったこと、について、推理小説特有の構造についてから述べる。推理小説はある意味で読者にゲームを仕掛ける、謎を解かせる、という側面があり、ストーリーを読んで情景を想像したり、共感する以外に、そのような読者の能動的態度によって楽しむという推理小説独特の作者と読者の関係がある。このことを考えると、現実では起こり得ないことが、ましてや結末部の重要な部分に事実として描いてしまったことは、作者は読者に解ける謎を出すという暗黙の了解、すなわち信頼関係を崩してしまうこととなってしまったということは言えるであろう。このことが許されるならば、推理小説において例えば死体が消えるトリックがあり、それを読者が推測するときには、宇宙人に連れて行かれた、というような可能性を考えることまでもが許されてしまう。SF小説をここで引合いに出したのはそのような問題があるからだ。さらにこのことに関連して、小説の内容は現実世界に似た全く別の世界であるという問題を考えなければならない。つまり例えば、「クレヨンしんちゃん」の野原しんのすけが埼玉県春日部市出身と聞くと多少の違和を感じるが、そのような「設定」と聞くと素直に受け入れられる、ということをより深く検討しなければならないということである。確かに推理小説の作者と読者の信頼関係を考えると、現実世界と同じように考えてしまう。しかし、現実世界ではなく、小説の中に生み出された、現実世界とは別のその作品の中の世界であることを無意識的に読者は自覚している。小説がそもそも架空の殺人事件などを創り出している時点で、そのことを相互に了解しているはずであり、文字世界において現実にとっての嘘、すなわちその作品世界での本当、また極論的にはなるが多元宇宙での本当、ということを考えればそれもまた正しいとも言えてしまう。これが二つ目に挙げた、小説という文字世界であることを考えなければならない、ということである。これらを踏まえて考えると、文学という点で見るならば、落選理由としてこのことが原因となったのは理解出来なくもないが、それが文学としての欠陥であるとは言えないのではないだろうか。