がんばってます

いのちの電話

限界すぎて、いのちの電話にかけることに決めた。精神が絶望的な状況になった人は心当たりがあるだろうが、「自殺 名所 〇〇県」とか「〇〇大学 自殺」とか「確実に死ぬには」とかそんな言葉を検索しても、上に出て来るのは厚生労働省とどこかのNPO法人の「いのちの電話」なるものの電話番号と、知恵袋、相談サイトその他諸々のマユツバモノの羅列である。どうしようもない。死に場所を決められるだけでも逆説的に安心することをもう少し理解しようという気はないのか。倫理的にはダメでも、三店方式みたいに、実生活、許されたメディア、死に場所って感じで、、。まぁもちろん無理であるのは知っている。本当に耐え難い身体的苦痛ですらスイスに行かねば死ぬ事を許されない世の中であるのだから。京都ALS患者嘱託殺人事件があったけれど、日本の死への過剰なまでの不寛容さ(希死念慮が異常であることは自覚している)は結局あまり変わらなかったな。

前置きが長くなったが、こんなことを言っても、実生活の破綻と精神の悪化により、私もまたニッコリ100点笑顔の「自殺防止」キャンペーンにホイホイと釣られてしまった訳だった。救われたいから自分で掛けようとしているのに、最後の最後まで24時間テレビ程ではないにしても、本当にこんなことで弱者救済になるとでも思っているのかという憤慨や一抹の不安を覚えつつ、それでも「いのちの電話」と検索窓に打っていた。するとよく見覚えのある、ずっと卑しんでいた検索結果の羅列が出てきた。ここで、よし。いよいよ電話するか、と意気込んだ訳だが、でも、それはよく見ていたものであったのに、今まで避け続けていたものだったから勝手が解らない。はじめに上に地図、下に電話番号が出ているアレが目に入ったが、これには仕組みとか誰がとかの説明が全くないから、この電話番号にかけるのは止めようと思った。次に厚生労働省のサイトが目に入ったのでそこへ飛んだ。そしたらまず初めに出てくるのは、各都道府県のいのちの電話へ飛ばしてくれる、いのちの電話の前段階の電話番号だった。まぁ全国統一されている訳がないのだから仕方のない事だと思うけれど、そのワンステップがまた手を遠のかせた。その他の番号もあって、その全国の番号に続いていろんなNPOの電話がズラーーっと並んでいた。精神が病んでる人にこの中から良いと思うものを探せなんて無理って程あった。選択させられ続けてきた人にここまできて選択させちゃダメでしょ。と思う。いつ何時でも「普通」が水準なのだと、それがこの日本のスタンダードなのだと改めて感じた。それでもうここには見切りを付けて、自分の県のサイトが次にあったからそれを見に行ったら、またいくつか番号が挙げられてたけれど、もうここまでで結構疲れてしまっていて、もう適当に選んでかけた。でも、この番号通話中だった。私は何故か繋がらないということを考えておらず、ッ!??!?。。!、と面を食らったが、まぁ、よく考えれば、そうか…、となり、大人しく厚生労働省のサイトに戻って再度選ぶことにした。もう全然どうすれば良いか分からないし、考えることもキツかったから、パッとNPOの一番上の電話番号にかけた。電話のコール音が流れた。これが流れたということは数秒後に繋がる。ドキドキした。そしてついに、繋がった!

「あ、、えっと、、もう、相談しても、良いんですかね、、?」

なんてたどたどしく聞くと、お手本通りの愛想の良い声で「はい、いいですよー。」と返ってきたので、とりあえず最近の、というか昔からずっと抱えてる問題を吐露した。その間、なんかもう涙が勝手に溢れていたけどなんとか泣いてないような声色を作って、下手な日本語でちゃんと伝わるように頑張って話した。それに対して、向こうは相変わらずの猫撫で声で、「わかるよー、つらかったねー、ひどかったねー、がんばったねー、」と相槌を打っていた。こんな言葉が返ってくるのはもう既に知っていたと言っても良いことだった。でもそれはあまり失望の原因にはならなかった。事務対応、凪の、入れ込みすぎない対話。それがマニュアルである。ことことはつまり、この時間は暇を持て余してsiriに訳のわからないことを言って「すみません、よくわかりません」と返事をさせて遊ぶのと本質的になんら変わらないことを示しているのに、なんかやっと聞いてくれて(このような形でも受け入れてもらえて)安心した方が何故か強かった。それが自分の寂しさだった。それでもうそのまま順調に、思っていた程の苦痛なく話していたが、22分を過ぎた辺りで唐突に、突然に、声色が変わって、硬い声になって、「じゃあ貴方はこれをしたら良いよ」、「これをしたら楽になれるよ」、という風に結論を唱えだした。私は戸惑いながら、でもそれは「正しい」から、「はい、、そうします、やってみます、」としか言えなかった。そして気付いた。あぁ、30分を過ぎて話すのが厭なんだ、それを過ぎると他の人を待たせたり、ずっと同じ人と話すのは面倒があるから、20分限定の優しさであったんだ、と解った。そしたらもう話しているのが馬鹿馬鹿しくなって、「ありがとうございました。助かりました。」なんて言ってすぐ通話を切っていた。わたしにはこの唐突の「正しさ」が一番突き放されたように感じられた。時間が有限で、他に苦しい人が沢山いるのは痛いほど分かっている。痛いほどというか、それは例えではなくて、実際知人で私ではもうどうしようもなかったことが何度かあり、それは時間の限界だったし、また自分の痛みであった。でも、、でもだ。でも。私も辛いのだ。それを話してみませんか、と言ったのは、そちらではないか。向こうも現実に相談相手がいない人の終着地であることくらい分かっているだろう。それで話してみれば、自分でももうとっくに気付いている結論を突きつけられて。私が「いのち」を大切に出来ない理由の一割程度しか話せていないのに。ここでは自分の陰惨さを唯一解放できると思っていたのに、、私は過度に期待しすぎてしまっていた。

、でも多少は楽になったのは事実なのである。人に話すのは大事だ。それにほぼボランティアのような公的機関に求めすぎていたのも、冷静に考えれば聞いてくれるだけでも・・・ということだ。あと、なによりも体験として無駄ではなかったと思っている。何もせずに文句を言うのはもう言及するまでもなく馬鹿である。だから、それを無くせて良かった。でも実生活の問題は、何一つ、解決しなかった。