がんばってます

メタルと女性性

メタルにおいては、女性的な容姿に近付けることは目を引く格好、派手な格好、キャラクター付けの一環としてメジャーに行われている。ここにおいて、あくまで女性的な見た目なのであって胸は無く、そして現実の「女性」の化粧とは離れたものであることに注視したい。この特徴は野郎歌舞伎におけるいわゆる「女形」に似ている。佐伯順子氏の『「愛」と「性」の文化史』では、女形には究極の人間美、「胸がない」という点から仏像的観音菩薩と等しい美があると述べられている。女形は、歴史的に遊女歌舞伎から始まり、治安維持の為幕府によって禁止され、男性しか演ずることの出来ない状況の中で創始されたものである。このように遊郭文化から野郎歌舞伎の女形として完成されるまでに継承されていったなかで、女性そのものではなく女性性への羨望、神格化を通して、世を離れた陶酔的経験、「現世離脱欲」を体現しているのではないかと佐伯氏は述べる。異なった性を持つ者がある種異性を客体化し、理想を達成しようとするという現実からの倒錯、そこに「架構の理想郷」を生み出すという営みに人々は慰みを見出していたのである。

それでは仏像的観音菩薩と等しい美とはどのようなものであるのか。仏の身体には三身説という考えがあり、「法身(ほっしん)(永遠不滅の真理で釈迦の本身),報身(ほうじん)(単に永遠の真理でも,無常の人格でもなく,真理を悟った力をもつ人格的仏),応身(おうじん)(衆生救済のため,真理により現世に姿を現した仏)」(百科事典マイペディアから引用)の三つがある。「法身」は永遠不滅の真理そのもので、「報身」と「応身」には肉体が存在しているのに対して「法身」は目に見えるような形で物理的に存在しているわけではない。その為仏像にも性別は無いとされているが、モデルが釈尊なことを考えれば、男性由来の中性的な身体であるといえる。また、身長も経典には釈迦の仏身長は丈六(約4.8㍍)となっている。これは大乗仏教で数多くの人々を救う超越して優れる仏を身体的に誇示しているものである。前にみた「現世離脱欲」とここにみてきた「超越」ということは、メタルの女性性においても同じことが言えるのではないだろうか。メタルにおいては特に攻撃性と宗教性はそのカルチャーにとって大きなものであるように思う。メタルバンドの悪魔崇拝がその大きな例である。そして、特にヘヴィ・メタルではメイクなどを用いて顔を異形にすることでその凶悪さや他者との選別を増すという行為は、広く行われてきた。その「日本版」というのが、このメタルシーンに度々見られる女性性の発現なのではないだろうか。つまり、このメタルにおける女性性というものは、無意識的な「現世離脱欲」と「超越」への羨望の形而下への日本文化的表出であると同時に、その攻撃性と女性性のギャップは「地獄」のようなもので、ボディランゲージとして曲を聴くという行為に救済を示しているのかもしれない。